思春期の妄想にエロとバイオレンスは必須です(それは今もか)。
27号は未分化の両性具有ながら、そこそこ美形という設定なので、色々ウハウハな目に遭います。しかし同時に、ありとあらゆる災厄をもその身に引き付けてしまう不幸な子でした。


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ヒロインと心が通じ合うけどすれ違う。



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一人で旅したらこんな目にあった…



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旅の途中、優しくしてくれた人もいた。









旅を続けて、ついに27号は自分の出生の秘密を知ることになります(…何かエロい絵ですが)。

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冒頭でも触れたように、彼は実は最終兵器の鍵となる存在でした。
地球防衛、管理のためのスーパーコンピュータシステムと一体化(つまりシンクロですねw)して、今は各地の基地に眠っている複数のロボット兵士を一人で動かすことが出来るのです。高い知能はその情報処理のためにそなわったものだったのでした(例えば、ネットワークに神経接続して、同時に百人くらいの人から送られた情報を一気に処理して命令が下せるとか、そういう感じを想像してください)。
要は、システムと一体化することにより、一人で戦争が出来るという身体だったのです。ついでに火山活動とか、気候制御システムとかその辺もある程度動かせる設定もありました。機械と一体化し、地球の守護神となるべく造られた(でも途中で廃棄された)というわけです。それは元を辿れば彼の生みの親の悲願(=地球を守る最強の存在が欲しい)であり、同時に野望そのもの(=この同じシステムを転用すればたった一人の力で他の星を制圧できるかも知れない)でもありました。

そんなとんでもない存在だから、丁度その頃、27号の生存に気づいた生みの親は「あいつ始末しなきゃ」と地球に刺客を送り込むことになります。



そして27号は生みの親である「彼」の刺客と戦って勝ち、己を殺そうとする親と直接対決するべく宇宙に旅立ちます。
ここからはもうスターウォーズみたいな話になっちゃう予定でした。
ただ一つ違いがあるとすれば、戦いを前にして27号が「性別を選ぶ」というステップが予定されていたことでしょうか。



彼は男性化して、戦いに行きます。
(当時の絵があんまりなので描き直してみた…)

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そして彼の終わり無き旅が始まるのでした……



ストーリー(といえるほどのもんじゃないですが)はこんな感じです。
ご覧になってくださった方、いらしたらどうもありがとうございましたm(_)m




以下、勝手に語ります。長いです。


終わりもせず、始まりもしなかったオリジナル構想(妄想)話なのですが、面白いことに、今から考えると、私がすっかりメロメロなエヴァやハガレンといった作品に似た要素がみられたりもします(掲載した絵を描いた95-98年頃にはエヴァが放映されていましたが、話の大枠が練られたのは主に1991年から1994年頃です。ただし絵が古すぎてその頃の絵はちょっとうpする気になれませんでした)。
別に自分のオリジナルさを主張したいのではなく、要は、モロに90年代の空気を吸って生まれた妄想だったということです。つまり、エヴァやハガレンの原作者殿がご覧になり、吸収しておられたであろうものと同じモノから影響を受けて出来あがってる可能性が高い。だから、知らなかったとしても似てるところがあって当たり前かなと。そして、恐らく私と同時代を生きた方々も、例えそれが完成しようとしていまいと、やはり似たような構造のオリジナル物語を作ったりしておられたのではないかと思っていますv


【揺らぐアイデンティティという問題、及び金髪金色の瞳について】

例えば、主人公の27号はある意味、エヴァの碇シンジ(=世界の鍵)と綾波レイ(=人外でアイデンティティの混乱がある)を混ぜ合わせたような存在です。そして性や種の境界が曖昧で己のアイデンティティに疑問を持つ登場人物や、惑星の運命を変えちゃう少年少女というのは、もともと24年組の少女マンガには割と見られた設定であり、エヴァはそれを少年アニメの世界に接合させたという意味で画期的な作品でした。そして私もやはり24年組に多大な影響を受け、かつ「少年もの」として位置づけられていた90年代のWJやサンライズアニメにハマってましたから、ミックスして似たようなテーマを抱えた妄想が出来上がるのは当然といえば当然です。

ハガレンに関しては、もともとハガレンの物語構造がエヴァに似ているなという印象であり、原作者様の年齢からしてエヴァからの影響が当然ありうるだろうと感じています(ただし作品の雰囲気は大分違いますが)。だから、エヴァに懐かしい感じを覚える私がハガレンに同じ匂いを感じるのは当然といえば当然。
しかし、それに加えてハガレンには他にいくつか「デジャヴ」を感じさせる要素があったりします。絵をご覧になればわかりますが、例えば27号は偶然にも、長い金髪に金色の瞳をしています。だから、初めてハガレンのエドワード・エルリックを見たときは、なんともいえない懐かしい気持ちになりました(笑
しかもハガレンではエンヴィーというキャラに関連して両性具有や雌雄同体という単語が出てくるし(エンヴィー自身の性別は定かではありません)、更には、明らかに中央アジアか中近東付近をイメージしたと思われる、砂漠の中の遺跡(クセルクセス)が話の中で重要な鍵を握ったりする。だから既視感は尚更です。本当に偶然とはいえ、昔自分が馴染み、親しんだパーツに沢山再会する、ハガレンはそんな気にさせてくれた作品でした。

なお、私自身がどうして金髪金瞳のキャラを主人公にしたくなったのかについて、由来は思い出せません。
ずっと記憶を辿っていくと、「魔神英雄伝ワタル」というアニメの「翔龍子さま」萌えが影響して出来たキャラだったということは思い出せます。だから長い金髪をしてるわけです。だけどどうして金色の目なのかはわからない。
他に影響を受けた漫画としては、やはり長い金髪で未分化の両性具有な少年が出てくる飯田靖子さんの漫画(大好きでした…!)、「パナ・インサの瞳」があるのですが、これは1994年以降の連載ですし、主人公は金色の瞳ではありませんでした。
他に物語への直接の影響としては、萩尾望都に加えて竹宮恵子の「イズァローン伝説」「地球へ」、それと樹なつみの「OZ」や、ご存じハリウッド映画の「ターミネーター2」あたりが大きいです。しかしこれに金色の瞳のキャラは出てきません。だから今でも由来は謎のままです。


【両性具有について】

長くなりましたが最後に、両性具有のキャラを主人公にという点について述べたいと思います。実は27号の設定を考えたとき、最初はただ軟弱なだけの男の子という設定でした。それがいつの頃からか両性具有に変わっていったのを覚えています。やはりきっかけも理由も思い出せないんですが、一つだけ確かなことがあります。高校生だった私にとって、両性具有となった27号はある種「理想の存在」であると同時に、「一番自然に思い描くことの出来る」キャラとしても位置づけられるようになっていったという事実です。
男でも女でもない、人間ですらない彼(彼女)は、特別でありながら、当時の私にとって最も感情移入が容易な存在でした。そして、文字通りまだ何も知らなかった私は、他の人にとってもそうに違いないと思いこんでいたような節があります。つまり、人間がもっとも率直に思い入れを持って自分の理想の姿を表現するとしたら、それは両性具有の形を取るだろうと心から信じて疑わなかったのです。
後になってから、色々な人と接している内に、むしろそのような考えをする人は少数派であることを知り、驚きました。多くの人々にとって両性具有というのは、少なくとも自然にすぐ思い浮かんだり、どうして自分の身体はそうでないんだろうなどと考えたりするようなものではないみたいですね。

その後大人になり、色々な人生経験をして、一時期は思春期の妄想癖と一切手を切ったような気持ちでいました。だけど二次創作という形でまた絵を描いたり小説を作ったりするようになってそうではなかったかも思い始めています。特に、今年に入ってハガレンを介して、再び両性具有についてあれこれ妄想するようになってしまい、もう何だか、完全に一週ぐるっと回って元に戻ってきたみたいな…そんな気分(笑

昔は、大人になれば、男性とであれ女性とであれ、セックスや恋愛を知ればきっと思春期の夢など忘れてしまうのだろうと思っていたし、それを恐れてもいたと思います。だけどそういうわけで、今、やっぱりあの頃と自分は変わっていなかったんじゃないか?ということに気づいて少し愕然としています。
別にそれでショックなわけでもなく、ただ純粋に驚いているんです。
そしてこう思いはじめてもいます。結局、27号のような存在は、私の精神のあり方、その性別(ジェンダー)をかなり的確に表したものだったのではないかと。そしてそれは結局、十代の頃から変わることが無かったのではないかと。

実をいうとつい最近まで、私は精神の性別という考え方にいささか違和感を持っていました。何故なら、身体の生物学的な基盤はともかく、自分の精神が男性よりか女性よりか、どちらの性別に欲望を感じるかなんて、ほんのちょっと「学習して調整」すればかなりの程度まで変えられると心から信じ込んでいたからです。つまり精神のあり方は無茶苦茶に流動的で、それこそ一年先には変わってしまうかもしれないようなものだから、そこに性別を割り当てることはあまり意味がないと思っていた。例えば、二丁目で一ヶ月遊べば彼女を作りたくなるし、女性がいない環境だったら、それなりに適応して男性と仲良くなる。性なんて、セクシュアリティなんてそんなもんだろうと。でもって、どうしてみんなそのことに気づかないんだろう?何でこんなにも、「男」「女」という二大カテゴリーの確かさを疑わない人が多いんだろう、と一人で不思議に思っていました。
だけど最近、そもそもこんな風に物事を感じること自体が、一つの性のあり方なのかもしれない、そう考える方がシンプルなのかも知れないと思いはじめています。つまり、ある人がどうしても自分を男性もしくは女性と感じることをやめられないみたいに、私は自分をこのように感じることをやめられないし、27号のような存在を構想しては勝手に親近感を感じたり、時には萌えたり性的に興奮したりすることもやめられない。それこそが、言うなれば私の精神が持っている傾向、性別、ジェンダーなのかも知れないと。

そして漠然とした妄想のレベルではありながら、両性具有の27号が辿った道筋を思うと、自分の今までの人生ともそこはかとなく重なるような気がして、奇妙な思いに囚われます。男と寝て女と寝て、父なる者を憎み、戦い勝ちたいと欲し、そのために男性的な存在になりたいと願い、しかしながら何にもなりきれない思いのまま旅を続ける…。宇宙船に乗って旅立ったSFの主人公と違い、私自身の人生は全くもってチンケなものですが、それでも、私自身の実際の人生をも導いたリアルな欲望、衝動と同じものが27号の物語にはっきりと現れているのを感じます。
その意味で、27号という存在は、私にとってあまりにも痛々しい思春期の自画像であり、ついにはそこから離れることの出来なかった原点のようなものなのでしょう。




線画は上から順に1997年、1994年、1996年、1996年、そして2008年11月。フォトショップで加工してUp。